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MUNI carpets

ABOUT MUNI

Column of MUNI CARPETS
ムニ・カーペットに関する雑学

 

 

 

THE DESTINY OF CHINESE RUG
クラシカル・チャイニーズ・ラグの運命

清国は、「三世の春」と言われた康煕・雍正・乾隆帝の治世の末期(19世紀半ば)、ゆきづまりの時期を迎えます。 清からの輸入が増え、自国からの輸出が少ないことに悩んだ大英帝国は、やがてアヘンを清に輸出し、流行させます。対抗した清と英国との間で、アヘン戦争が起こりました。清が負け、国力の衰えがあきらかになると、欧米の国々や日本は次々に清に戦争をしかけ、不平等な条約を結びました。清王朝の衰えに、国内の内乱もおこるようになり、その内乱を利用して、諸国はさらに清国内へ侵入していきました。そんな中、欧米や日本の商社は美術品を獲るためにバイヤーを中国へ送りこみ、彼らの手でクラシカル・チャイニーズ・ラグを含む多くの美術品が欧米へと運ばれました。

 

1908年、ニューヨークのAmerican Art Association (後のサザビーズ)のオークションで、クラシカル・チャイニーズ・ラグが紹介され、脚光を浴びます。パリでは1911年、美術館では初めてのチャイニーズ・ラグのエキシビションがミュゼ・チェルヌスキ(巨万の富を築いた銀行家チェルヌスキ氏の中国美術コレクションを集めた美術館)で開催され、注目を集めました。
この年、中国では辛亥革命がおこり、翌年、中華民国が成立して、新たな歴史を刻み始めます。
メトロポリタン美術館(ニューヨーク)、ヴィクトリア&アルバート美術館(ロンドン) 、テキスタイルミュージアム(ワシントンD.C.)など美術館のすばらしいコレクションもこの頃に渡った品が蒐集されたものです。

右の写真は、当時欧米へ渡ったクラシカル・チャイニーズ・ラグの一つです(部分写真)。もともと明の時代に、皇妃のプライベートな寺院のために作られ、使われていたと伝えられるもので、1916年に、ルイス・カムフォート・ティファニー の所有となりました。ルイス・カムフォート・ティファニー(1848~1933年)は、ニューヨークの有名な宝飾店(現在のTIFFANY&Co.)の創業者チャールズ・ルイス・ティファニーの長男として生まれ、その生涯を美の追求に捧げた装飾美術家で、日本ではアールヌーボーのティファニー・ランプで知られる人物です。 「Tiffany Palace Carpet」と呼ばれるこの大きなラグは、いくつかの部分に分かれ、清国末期の混乱のなか、分散していましたが、彼によって集められ一枚のラグとなったと言われています。その後長く彼の所有となっていましたが、現在はサンフランシスコの、とあるコレクターが所有しています。

MUNI Rug Collection“青花氈”
乾龍様式 18世紀中期

右は、1916年のAmerican Art Associationとティファニー・スタジオ(前述のルイス・カムフォート・ティファニー率いるインテリア工房)とが共同で開催したオークションのカタログに掲載されているクラシカル・チャイニーズ・ラグです。とても稀少なホワイトとブルーのみの配色のものです。ゴールドイエローを用いず、ホワイトとブルーのみで織られた品は、貴族が使ったラグだと言われています。その時のオークションの後、長いあいだ個人のコレクターが所有していましたが、現在は私共MUNI のコレクションとなっています。
中国の混乱はその後も長く続き、欧米へと持ち出されたクラシカル・チャイニーズ・ラグは、皮肉にも文化大革命をも逃れることとなりました。中国本土に残されていた、かつて特権階級が所有していたチャイニーズ・ラグは焼かれてしまい、海を渡っていたものと、紫禁城や寺院の奥深く秘蔵されていたものだけが幸運にも遺されたのです。

 

中国皇帝の王宮から、欧米の美術館、プライベート・コレクションへ。時や国を超え、主を変えて、クラシカル・チャイニーズ・ラグは至宝として受け継がれています。